図書館便り 第52号
2010年度前期「本を読む」特集号

平成22年9月25日発行

目次

「本を読む」とは
土田宏成(国際コミュニケーション学科准教授)

 本当に暑い夏が終わりました。熱中症の危険は去りましたが、夏の疲れは間違いなく溜まっているはず。 体調管理に気を配り、後期授業にのぞみましょう。
 「本を読む」とはその名のとおり、1冊の本を読みとおすことを通じて本を読む面白さ、奥深さを体験し、読書する習慣を身につけてもらうことを目的とする科目です。2005(平成17)年度以降の入学者が履修することができます。
さまざまな分野の教員が学生に読んでもらいたい本(新書等)を課題図書として推薦しています。この授業は、教室で定期的に行われる通常の授業とは異なり、本を推薦した教員と受講者との間で個別に行われます。内容、形式ともにユニークな授業です。詳しくは大学ホームページで電子シラバスをご覧下さい。課題図書は、大学附属図書館の指定図書コーナーに配架されています。ぜひ手にとってみてください。
 ここに紹介するのは、2010年度前期授業の最終レポートの一部です。
 さて、先が見えない時代を反映してでしょうか。最近、古典とされる哲学書や思想書、文学書などへの関心が高まっています。そして、それらをフツーの人にも読みやすく、まんが化したものや「超訳」したものも出て います。古典や名作を読むきっかけとして活用してみてはどうでしょう。

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平成22(2010)年度後期 「本を読む」履修説明会のご案内
「本を読む」を履修してみたいと思った方は、履修説明会にご参加ください。

日時:平成22(2010)年9月29日(水)12:30−13:30

場所:4-101教室

  • 平成17(2005)年度以降の入学者が対象です。

  • 以前に履修したことのある人は、再度の履修はできません。

  • 本の内容、履修に関する注意事項など、詳しくは電子シラバスで確認してください。

  • 課題図書は、図書館で見ることができます。
    (指定図書コーナーに配架:10/4までは貸出禁止・館内閲覧のみ)

やむをえぬ理由で履修説明会に参加できない場合は、担当教員と個別に連絡をとってください。

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2010度前期「本を読む」 課題図書一覧
書名をクリックすると、各授業の課題レポートに移動します。
(一部掲載のない授業もあります。)

  担当教員書名 著者叢書名 等請求記号
1 青山先生 命は誰のものか 香山知晶ディスカヴァー携書 490.15/Ka 17
2 植田先生 ツァラトゥストラはこう言った 上・下 フリードリッヒ・ニーチェ 岩波文庫 SIB/134/N 71
3 菊地先生 虚構の時代の果て 増補 大澤真幸 ちくま学芸文庫 /STAG/169/O 74
4 黒崎先生 「かわいい」論 四方田犬彦 ちくま新書STS/704/Y 81
5 高杉先生 コミュニケーション力 斎藤孝 岩波新書SIS/361/Sa 25
6 武田先生 知っておきたい男と女の心理学 渋谷昌三西東社141.62/O 86
7 土田先生 茶の世界史 角山栄中公新書SCS/617/Ts 83
8冨松先生 ベースボールの夢
 アメリカ人は何をはじめたのか
内田隆三 岩波新書 SIS/783.7/U 14
9 矢部先生 なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか 浦坂純子ちくまプリマー新書 377/U 84
10 吉村先生 他者の苦痛へのまなざし スーザン・ソンタグ みすず書房070.17/So 48
11 岩井先生 できそこないの男たち 福岡伸一 光文社新書SKS/467/F 82
12 高木先生 オニババ化する女たち
 女性の身体性を取り戻す
三砂ちづる 光文社新書SKS/495/Mi 51
13 山下先生 アトムの命題
 手塚治虫と戦後まんがの主題
大塚英志 角川文庫S726/O 88

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2010年度 前期「本を読む」課題レポート
*上の課題図書一覧の書名をクリックすると、各授業のレポートに移動します。

 

本を読む−1 香川知晶 『命は誰のものか』


『命は誰のものか』を読んで

英米語学科1年 三ッ俣なぎさ

 人間は死からは逃れられない。嘗て人間は、自然に身を任せて死を迎えていた。だが、人間は医療技術の進歩により、脳死や安楽死など「不自然な死」をつくり出し、死は人間により操られ決定されてしまう事態になってしまった。
 この本は題名の通り、「命は誰のものか」ということを複数の事例を踏まえて読者に問いかけている。その中でも私にとって最もインパクトがあったのが、脳死だ。その主な理由は、2009年7月に改正臓器移植法が成立したからだ。脳死を人の死とし、本人の臓器提供拒否の意思表示がない場合は家族の同意により臓器を摘出することができるというのがその内容だ。法律で脳死が人の死と定義されたことによって、私たちにとって脳死はぐっと身近な問題となった。
 多くの人は「脳死」は人の死であり、そこから連想する事といえば臓器移植と即座に答えるだろう。実際、私も本書を読む前まではそのような考えを持っていた。本書を読んで脳死は本当に人の死であるのか疑問を抱くようになったのだ。
 昔、臓器移植は心停止した後、即ち死体の臓器を摘出し行われていた。だが、移植に時間がかかるため臓器の鮮度は落ちてしまい、失敗を繰り返していた。特に心臓移植の場合、心停止した後の心臓を移植しても正常に動かず、移植は成功しなかった。そこで注目を集めたのが脳死患者だ。昔は臓器提供法もなく、脳死は人の死と定義されていなかった。すなわち、脳死が死ではないなら「脳死患者」からの臓器摘出は殺人になってしまう。そこで、そうした殺人を正当化するための法律や、移植についての社会的承認を得るために必要な基準がつくられた。数多くの命を救うために、命のリレーをするために脳死は人の死とみなされたのである。
 しかし、本当に脳死は人の死と考えていいのだろうか。脳は死んでいても心臓は動き、体は温かく、成長や出産することも可能なのだ。出産とは言っても、自然分娩ではなく帝王切開によるものだが、「脳死患者」のお腹の中で赤ん坊は育つ。2005年の5月アメリカで「脳死患者」のスーザン・トレスさんが出産したというニュースを知った。私はこのニュースを知り、脳死は人の死であってはならないと思った。また、脳死の子供を持つ多くの親たちは、臓器移植法が改正され、脳死が一律に人の死となったことで最愛の子供を死体と認識されてしまうことに反対している。
 この他にも、脳死が人の死とはいえない理由がある。ハーバード大学の脳死判定基準の中には、刺激への無反応、無反射が入っているが、脳死患者の体が臓器摘出時に拒否反応を起こしているかのように動いたりするために、臓器摘出時に脳死患者に麻酔を打つといわれている。死体同様に扱われるはずの脳死患者に麻酔を打つのはおかしい。他にも運動・呼吸の欠如、平坦脳波といった基準が設けられているが、脳死判定基準は正確とはいえないのだ。あるいは、基準は正確でも実際の判定が間違ってしまう場合がある。
 もうひとつの問題は、家族の同意により臓器を摘出できるという内容だ。もし、ある「脳死患者」がいたとして、家族が臓器摘出を依頼し患者は確実な死を迎えるとしよう。果たしてその患者はそれを望んでいたのだろうか。従来は本人の事前の意思確認が必要であったが、改正法ではその必要がなくなった。つまり、死は提供者が認めるものではなく、第三者に委ねられたのである。脳死患者からの臓器摘出に関して家族が死と臓器摘出の決定権を持っていることはおかしなことだ。なぜならば、脳死患者が大人でも、子供であろうとも彼らは立派な一人の人間であるからだ。
 また、家族の意思に委ねるといっても対象となる家族というのは、配偶者だけではなく孫、祖母、祖父などを含んでいる。したがって、家族の一人が脳死と診断された際に、家族内で意見が一致しない場合も考えられる。その際、誰が脳死状態の家族の生死を決めるのか。家族間の関係が悪くなる可能性も十分にある。
 本書の題名に用いられている『命は誰のものか』という問いが、私にとってとても切実なものとして現れるのが脳死問題である。本書が主張しているように、少なくとも本人の生前の意思確認ができれば生体間臓器移植に準ずる仕方で臓器移植が認められる場合もあるかもしれない。しかし、改正臓器移植法のように一律に「脳死は人の死とする」というのはいかにも乱暴である。改正前の臓器移植法のように本人が自分の死や臓器を摘出するか否かを決めるべきだと思う。
 この本を通じて、脳死や臓器移植について様々な問題や現状、考え方を知ることができた。これからは脳死問題に限らず、医療現場で起こっている様々な問題の真実は何なのかを、すべての人が考えていかなければならないはずである。


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本を読む−2 フリードリッヒ・ニーチェ 『ツァラトゥストラはこう言った 上・下』

 

体感される哲学

英米語学科 2年 堀田 良

 「哲学とは何であろうか。」今まで数えきれぬほど議論されてきた命題である。この問いに対する答えは様々なものがあるだろうが、その中でも重要なものの一つに「人間はいかに生きるべきか、それを考えること」という答えがある。本書『ツァラトゥストラはこう言った』は、そのような哲学の定義にまさしく当てはまった書である。即ち本書は「真理の探究」や「哲学の学術体系の完成」を目的としたそれではなく、著者ニーチェによる同時代を生きる人間たちへ向けた啓蒙の書なのである。この小論文では本書でとられている、一風変わった思想の表現方法に関して考察してみる。
 本書を紐解くと一般的に考えられている「哲学書」との文章形式の違いに大変驚かされる。「一般的哲学書」とは哲学の分野の「専門用語」を用いて「論理的」に組み立てられる著作である。そのような本ではA=B、B=Cといったように論理立った順序をもって著者の思想が展開されていく。では本書ではどういった文章展開がなされているのだろうか。本書の冒頭にはおおよそ専門用語と思われるような語彙も論理的な文もみられない。本書は寓話のような物語によってはじまる。冒頭にあたる序説では世捨て人ツァラトゥストラが悟りを得、神とよばれた存在の死といかにして人間が生きるべきかを人々に問う。文の雰囲気は古代の物語、旧約聖書や宗教の聖典を連想させる。疑問に思われるのはこの点である。ニーチェの思想は近代化にともなっての脱信仰を推奨するものなのに表現方法はヤハウェの宗教の宗教書をパロディーにして書かれている。ツァラトゥストラの言い回しがよい例である。これはどのような意味があるのか。批判対象であるキリスト教をパロディーにすることでよりいっそうの皮肉を効かせるという意味もあるだろう。しかしこの表現方法の一番の効果はそこでは無いと私は考える。本書を読み進めるうちに解ってきたことは著者ニーチェが読者に求めているのは論理的な理解よりも、感覚的な実感と何よりも「ニーチェの哲学」の読者の人生における実践だと解る。聖書がその読者に知識的理解を求めず、悟り(啓示を受ける)を求めるようにニーチェは読者に自身の考えを「体感」して欲しいと考えている。たとえば序説を取り上げてみても、詩的な比喩が合間無く書かれている。これは著者が学術用語による論理的理解よりも、鮮烈な視覚的イメージを読者に与え、自身の思想を体感させたいことに他ならない。学問として象牙の塔の中で評価を得るのであればこのような方法は必要ないが、ごく普通の人々に衝撃を与え啓蒙するためにはなによりも芸術的、体感的に読者に強烈なショックをあたえる形式をとる必要があったのである。
 また、文章構成についても同じことがいえる。本書ではいかにも論理だった構成が展開されない。そのためにある箇所で文意を読み取れたと思っても、次の箇所でも読み取れるとは限らない。順序だった展開の代わりに本書ではキーワードと思わしき単語や文が幾度となく出現する。章の構成も宗教批判と思えば国家批判、かと思えば次は性について述べたりと乱雑に進んでいくように思われる。ここで解ることはニーチェの思想を読み解くにあたってやはり感性が不可欠であるということだ。さきほど述べたような乱雑にみえる章展開も読み進めるうちにある効果を表す。扱われるトピックは宗教や国家、性と様々でも、そこに読者はあたりさわり無く生きるための人間社会の欺瞞という同じ嫌悪対象を「感じる」。順序だった理解よりも、読者が自ら強烈な感覚を乱雑にみえる文章のなかから「悟る」、これがニーチェの目指した啓蒙のプロセスではないだろうか。
 誰よりも宗教を批判したニーチェが極めて「宗教的」な表現方法をとったのは皮肉であるし、ほとんど矛盾しているようにみえる。しかしニーチェは今を生きる人間たちに彼の思想で強烈な衝撃を与えたかった。また彼の思想を立派だが机上の理論だ、として受けとって欲しくなかった。ニーチェは前時代的な思想を打ち破ることを望んだがそのためには彼の思想を理解でなく体感した実践者が何より不可欠だったのだ。このような彼の望みが『ツァラトゥストラはこう言った』から読み取れるのである。


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本を読む−4 四方田犬彦 『「かわいい」論』

 

「かわいい」の本質とは?

英米語学科3年 小竹沙耶香

 以前、大学のある講義の中で、日本語の「かわいい」が世界共通語になりつつある、という話を耳にした。教授の話によると、この「かわいい」に相当する言葉が、他の国にはないというのだ。正直なところ、「まさか」、と思った。日本人の我々は、普段生活している中で、この「かわいい」を惜しみなく使っている。テレビや雑誌では流行の「かわいい」グッズの特集が組まれ、メディアを介して「かわいい」の声を聞くことも非常に多い。これほどまでに我々に浸透し、なじみの深い言葉が、日本だけのものとは大変信じ難かったのだ。
 だが、本書を読み進めるにあたって、日本人と世界との「かわいい」ものに対する概念や評価が根本から全く異なる事が判明し、やっとこの謎に対する答えを見つけることができた。日本人は古来、小さく儚げなもの、また幼さが感じ取れるものに対して価値を置き、それらを愛でる文化を持ち合わせている。第5章でもある通り、まさしく『「縮み」志向の日本人』と世界からの評価を受けるに相応しく、物事を縮小することに非常に長けている。一方、海外では、これら未熟なものを忌避する傾向にあるというのだ。価値を置き、愛でる対象が違うのであれば、表現する言葉に差が見られることも頷ける。
 また、本書で大変興味深かったのは、「かわいい」の対義語についてである。著者が学生を対象に行ったアンケートの回答の中には、「美しい」が対義語であるという声があった。「かわいい」も「美しい」も、対象物に対して称賛の意を含んでいると思っていた私は、この二つの言葉は類義語であるように感じていたのだ。しかし、それぞれの言葉が持つイメージの回答を見ると、「美しい」が崇高で緊張感をもたらすもの、というイメージを持つ一方、「かわいい」は自分より弱いものに対して支配欲が生まれるもの、とある。これまで類義語だと思っていた二つの言葉が、全く相反したものだということに気付かされた。また、この「かわいい」がグロテスクな要素を含んでいるという事にも驚いたが、「きもかわ」の例を見る限り、これも納得せざるを得ない。
 今まで「かわいい」を駆使してきた私だが、このようにたくさんの驚きと発見を本書から見出すことができた。普段から「かわいい」の安売りをしている我々だが、その言葉の本質を深く考える機会を持つことは滅多にないだろう。近年世界共通語としての認識が高まる「かわいい」を、日本の文化として誇れるよう、自分たちで今一度、この言葉への理解を深めれば、また違った「かわいい」が見えてくるかもしれない。



『「かわいい」論』を読んで

英米語学科3年 日野美紀子

 私たちは日常生活の中で、「綺麗」や「美しい」よりも、まず「かわいい」という言葉を多く耳にする。道で野良猫を見かけては「かわいい」、筆箱を新しくしたのだと言えば「かわいい」、髪形を変えれば「チョーかわいい」。私自身が女ということもあってか、私の周りには「かわいい」という言葉がやたら氾濫しているように感じる。
 本書の折り返し部分を見てみると、「世界に冠たる『かわいい』大国ニッポン」とあるが、はたして「かわいい」とは日本独自の文化なのだろうか。私は本書を読むまで「かわいい」を英語にするなら「cute」だろう、と単純に考えていたので、本書における第二章の内容は衝撃的だった。筆者によれば、外国に日本語の「かわいい」に相当する意味を持つ単語は存在しないという。便宜上「cute」、「pretty」などの単語をあてることはできるが、その背後にある文化的背景と経緯はまったく対照的であるため、どこかでcuteと対応しきれない「かわいい」が出現してしまうというのだ。私はこれまで外国における「かわいい」文化について知る機会が少なかったので、初めはあまり実感がわかなかったのだが、グループディスカッションの際に一人の留学生が「外国にはかわいいという感覚がない」と発言しているのを聞いて、「かわいい」に対する見方が変わった。その後、他の授業でもたまたま外国の「かわいい」の感覚について少し触れたのだが、たとえば携帯につけるストラップなどは日本独特の文化であり、外国では「かわいい」という概念がないためストラップは売っていないそうだ。
 では、日本語の「かわいい」とはどのようなものを指すのだろうか。著者によると、日本人は小さく、未熟で、保護されるべき存在を「かわいい」と愛でる傾向にあるという。ところが外国では未熟なものを愛でる文化がない。このような違いは、例えば「鉄腕アトム」のオリジナル版とリメイク版を比べてみても分かる。日本のオリジナル版では、アトムの顔立ちは幼く、性格は素直で従順で優しい。ところが、ハリウッドでリメイクされたアトム(=アストロ)の顔立ちはぐっと大人びて、性格も本物の子供に近く、嘘つきで生意気で憎たらしい。黒ア先生の「アメリカの映画に出てくる子供はかわいくない」という話にもあったように、西欧社会では子供はそれ自身としては未完成な何者かでしかないのである。このような文化の違いに焦点をあててみると、「かわいい」は日本独自の概念だと言えるだろう。
 また、同じ日本人であっても性別によって「かわいい」という言葉の捉えられ方は異なるということが分かった。大学生へのアンケート結果からも分かるように、女性は「かわいい」と言われることに好感を持つ人が多く、一方の男性は「かわいい」と言われることに強い抵抗を感じている。このような違いのほか、男性と女性では「かわいい」と見なされ価値づけられている異性の映像はまったく異なった表象のもとにあるという。それは特に二次元のキャラクターなどにおいていっそう露わになるそうだ。
 このように、普段何気なく使っていた「かわいい」という言葉だが、国や性別によって様々な違いや意味合いを持つということを本書から知ることができた。著者も述べていたように、これは「かわいい」の持つ様々な側面のほんの一部にすぎない。本書をきっかけに、「かわいい」という言葉をこれからもっと掘り下げて考えてみたいと思った。


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本を読む−9 浦坂純子 『なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか』

『なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか』読後レポート

中国語学科1年

 私がこの本を選んだ理由は、私も同じような疑問を持ったことがあったからであった。高校1年ぐらいのときは就職してもいいのではないかと思っていたぐらいだったのだが、親に「大学ぐらいは出ておきなさい。あなたのために言っているのよ」と言われた。3年生になると、私のいたクラスは特進クラスだったため、「進学」することが当たり前のような雰囲気になっていたため、自然とこの疑問も考えないようになっていった。だが、やはり心のどこかでは引っかかっていたのだと思う。
 私がこの本を読んでまず面白いと感じたのは、序章の「パラサイト・シングル」についてである。当初私はこの言葉の意味を知らなかったのだが、この本によって、私もそうなる可能性のあることを知ることができた。今、日本では確かにパラサイト・シングルが増えてきていると感じる。それを感じるのはアルバイト先で親と同居しているフリーターの人に出会った時や、自分自身の将来のことを考えた時である。「自分も奨学金を借りているし、地元で働きたい。でもいい仕事に就けるか分らないし、就けなかったら親と同居してこつこつ奨学金を返していかないといけないかもしれない・・・」と考えると、自分もパラサイト・シングルの一員になってしまうのではないか、と考えてしまうのだ。そうならないためにしっかり目的を持って勉強することが大事であると思う。
 次に、驚いたことが第三章の「数学マスターし給与アップ?」というテーマだった。私は高校1年生のときに数学は捨てて私立文系大学に進むということに何の疑問も持っていなかった。昔から数学は大の苦手だったし、国語は得意だったので良いところを伸ばせばいいじゃないか、と感じていた。なのに、大学入試の数学受験者は数学非受験者に比べて100万円もの給与の差がついているというではないか。しかし、筆者も述べているとおり、「数学を受験していなかったからもう終わり、という考え方しかできないのならそれこそ終わり」だと感じた。こういう短絡的な質問をする大学生が増えてきている、というので、数学受験以前の問題だと思う。
 最後に、第四章の「書く」というテーマを考察してみたいと思う。学生は省エネの意味を履き違え、最も少ないエネルギーで、いかにして単位をゲットするかに尽力している。書くことに関してはそれが一番あからさまにでる。これは本当にその通りで、周りにコピーアンドペーストでレポートを作った人なんてゴロゴロいる。単位を取るつもりが失ってしまう原因になるというのは本当に皮肉なことだと思う。
 全体的にとても面白い内容の本だったと感じた。ところどころに出てくる関西弁が少しとっつきにくい、と感じた程度だった。不満もあったが、新しく色々な知識を得ることができたと思う。


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本を読む−11福岡伸一 『できそこないの男たち』

 

「本を読む」の最終レポート 〜できそこないの男たち〜

国際言語文化学科2年 A.C

 最初にこの本を読む前までの私の中の男と女の力関係を述べておく。私は特に男が勝っているとか、女の方が劣っているとかはあまり深く考えたことはない。どちらにも強みや弱みはあるのだから。おそらく力関係は五分五分くらいだろう。しかし体格的、体力的にいえば、男の方が強いというのは誰しもが思っていることではないかと思う。この考えは仕方がないと私は思う。しかし、この本は体格的、体力的に劣っている部分を含めても、女を男より優位な位置に持って行ってくれる力を持っている。しかも徹底的に男を下に見ている。その男を見下せる証拠をこの「できそこないの男たち」という本は科学的に分かりやすく説明してくれている。
 その中のいくつかおもしろいと私が感じた部分を簡単に紹介しよう。まだ生まれる前、受精後約7週目までは私たちの体はみな女のかたちだったのをご存知だっただろうか? そこからY染色体を受け取った受精卵はオスとしての道を歩み、Y染色体を受け取らなかった受精卵はメスとしての道を歩むのだ。つまり生命の基本形は女であり、男は基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものであるということだ。また女性は、尿の排泄のための管と生殖のための管が明確に分かれているが、男性はいっしょくたなので、女性のほうが分化の程度が進んでいる、つまり高等である。このことを著者の福岡伸一氏は「男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがある」と述べている。
 また次の章ではアリマキという虫を例えにオスの人生の役割を説明している。アリマキという虫は基本的にメスしかいない種類であり、メスが子どもを生み、子どもはすべてメスである。しかし1年に1度だけオスを生む。そのオスたちの役割はできるだけ多くのメスと交尾することである。そうして母親の遺伝子を誰か他の娘のところへ運ぶ「使い走り」なのだ。ここまで言われてしまうと、周りにいる男性がとても可哀想な生き物に見えてきたのではないだろうか? 出来そこないの状態で生まれ、女性の遺伝子を運ぶためだけに使い走りにされている男性が。
 戦前には、女性は子供を生む道具である、などという考えがあったがこの本を読むとそれは逆なのではないかと思う。実際に子どもを生むのは女性であり、男性はそれを少しだけ手伝っているだけである。そして男が出来そこないであるという極めつけの証拠が次の章で述べられていた。寿命についてである。日本人男性の平均寿命は79.19歳であり、それに対して女性の平均寿命は、85.99歳である。約7年の差がある。これだけでも分かるように女性のほうが長く生きるのである。それは他のありとあらゆる国でも同じである。
 生物学的に、男の弱さは運命づけられている。なぜ男はここまで弱い生き物なのか、と疑問が出てくるだろう。原因の一つとして上げられているのは、主要な男性ホルモンテストステロンである。テストステロンの詳細は明らかにわかっていない。しかしテストステロンは免疫システムに抑制的に働き、男性を象徴する器官が作り出されるのである。つまり簡単に言えば、男性になっていくと同時に癌や他の病気にかかりやすくなるのである。今まで述べてきたことからどれだけ男が弱く、出来そこないなのかわかるだろう。最初は科学的なことが書いてあるということで敬遠していたが、実際に読むとわかりやすく、実におもしろい。その辺で威張り散らしている男性たちに是非おすすめしたい。



『できそこないの男たち』を読んで

国際言語文化学科 2年 I.A

 私はこの本を読み、今まで自分の中にあった男と女のイメージが覆された。まず、『できそこないの男たち』というタイトルのインパクトが強烈である。男女差別はなくなりつつあるが、それでもなお男尊女卑の考えを持った人々が少なからずいるこの日本で著者は、男はできそこないだ、ときっぱり言い切っているのである。一体どんなことが書かれているのだろうと本を開き、1番最初に印象に残ったのはプロローグに書かれているシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉と、Iris Otto Feignsの詩である。この詩の書き出しは「わたしたちおんなはむすめをうむ だれのちからもかりずに」であり、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉とは正反対と言える内容である。このプロローグで、著者はアダムとイブの話も出している。しかし、それは私を含め一般的な人々が知っているアダムとイブの話とは180度違う。というのは、イブがアダムから造りだされたのではなく、アダムこそがイブから創りだされた、というのが正しいのでは、と書かれているからである。
 第1章から第12章まで著者は科学的根拠に基づき、データを示しながらいかに男が女より生物学的に劣っているかを解説しているが、この本を通して筆者が伝えたかったことはこのプロローグに詰まっていると感じた。また、この本の中でも特に私が興味深く読んだのは第7章「アリマキ的人生」である。この本の内容とアリマキに一体どのような関連性があるのかさっぱり分からず、不思議に思いながらも読んでみるとなるほど、アリマキの生活の仕組みは、プロローグで書かれている詩の冒頭「わたしたちおんなはむすめをうむ だれのちからもかりずに」、まさにこの言葉の通りなのである。しかし、アリマキは完全にメスしかいないのかというとそういうわけではないらしい。冬を越すため卵に包まれた子どもを産むにはオスとの交尾が必要になる。そこで、交尾をして卵を産むためだけにオスが生み出されるのである。この事実を知って、私は自分がアリマキのオスとしてこの世に生まれてこなくて本当に良かったと思った。毎日メスのために交尾をして、力尽きるとただ死んでいくなんてあまりにも悲惨すぎるからだ。
 しかし、著者はヒトのオスも遺伝子を他の娘の所へ運ぶ「使い走り」と表現している。確かに考えてみれば、女はさすがに単体で子どもを産むことは出来ないが、男の精子さえあれば子どもを胎内で育て産むことができるのである。はっきり言ってしまえば子孫を残す上で精子を運ぶ以外に男の出る幕なんて無いのである。
 さらに第8章「弱きもの、汝の名は男なり」では男がいかに死にやすく、ストレスを受けやすいかがデータを基にして綴られている。ここまで読むと男尊女卑というものがいかに馬鹿馬鹿しく的外れなものなのかがよく分かる。かといって私は「女尊男卑」を求めるわけではない。なぜならそんなものを求めなくても私たち女は人類が誕生した瞬間から既に男に勝っているのである。だから、これからもっと女は自信を持って、胸を張って生きていくべきだと強く思った。



何故男は「できそこない」なのか

国際言語文化学科2年 K.K

 私はまず、本書のタイトルに惹かれた。今でこそ、男女平等の社会にはなってきているけれども、一昔前までは、男性優位の風潮があった。女より男の方が優れていると長い間思われてきた。それなのに、その男がどうして、どのようにできそこないなのか、知りたいと思い、本書を手にした。
 本書は生物学的に男と女の違い、関係について解説している。第一章で遺伝子の話が出てきた時、生物学の苦手な筆者はすぐに読むのを止めたくなった。しかし、実際に読み進めてみると、著者は、理系の教授が書いたとは思えないほど分かりやすい文章を書いており、高校生の時、生物の教科書を読んでも全く頭に入って来なかった内容が、すぐに理解出来て驚いた。特に染色体を書物に例えた説明は本当に分かりやすかった。もし、これが事実を淡々と書くだけで、難しい専門用語ばかりの文章だったら、私はすぐに飽きてしまったと思う。また、二等以下の椅子は無いという研究者たちの厳しい競争の話や、ハーバード大学の研究者夫婦の話も、まるで小説のように面白く書いてあり、とても楽しむことが出来た。著者の文章の書き方は本当に上手く、惹きこまれるものがあった。
 本題の、どうして男は「できそこない」なのか、その答えは、人間のデフォルトは女性であり、男性はそれをカスタマイズして造られたものだからである。無理に作り変えられた故に、生物学的に不整合が生じてしまい、女性よりも身体的に弱くなってしまい、病気に罹りやすくなり、ストレスにも弱くなってしまった。寿命も短い。この解説を読み、私は、なんとなく知っていた男性が女性より弱いという話にきちんとした生物学的裏付けがあることを知り、とても驚いた。そして、同じ人間なのに、こんなにも弱くなってしまった男性のことを可哀想とさえ思ってしまった。男性である著者も少し自虐的に本書を書いているのではないかと考えた。
 しかし、何故女性の方がデフォルトで、身体的にも丈夫なのに、男性の方が権力を持つ社会になってしまったのか。著者の推察では元々、遺伝子を運ぶ役目しか無かった男に、女は食糧や薪やその他色々なものの確保の役目を与えた。そこから出た余剰を男は蓄積することを覚えた。次第にその余剰を支配するものが世界を支配するようになり、男が世界を支配しているように見えるようになった。私はこの考えにすごく納得させられた。何故、社会は男性優位になってしまったのか、あくまで著者の推察ではあるけども、私の中のその疑問が解かれたように思った。
 本書を読んで、筆者の男性と女性の関係についての考え方は変わった。もちろん男性を言葉通りの出来損ないと思ったわけでは無く、「できそこない」は男性の身体的特徴のようなものだと思った。だから、デフォルトの女性の方が偉いとは思わなかった。だからといって、余剰を支配した男性の方が偉いとも思わなかった。昔の男性優位の価値観にとらわれないで、これからはもっと男性と女性が対等な社会になると良いと私は考える。



『できそこないの男たち』を読んで

国際コミュニケーション学科1年 T.R

 本来生物はメスだけであり、メスの遺伝子を他のメスに運ぶための運び屋としてオスが誕生したと述べている。今回私はこの「できそこないの男たち」を読んで、現代の男女の関係性について考えてみようと思う。
 本書の中で述べられているように、オスは本来メスに遺伝子を運ぶための運び屋であった。しかし現代社会では、オスは働き、家族の中心としてメスよりも高い地位を占めている。本書ではその理由を以下のように述べている。『さて今日、オスがこの世界を支配しているように見えるのは一体何故なのだろうか。それはおそらくメスがよくばりすぎたせいである、というのが私のささやかな推察である。』私はこの意見を読んで、かつての「できそこない」は確かにオスではあったが、現代社会においての本当の「できそこない」はメスであると考える。
 この本の本文でも言っているように、メスは、オスは遺伝子の運び屋以外に様々な使い道があることに気づき、さらなる期待をよせるようになった。しかしそれによりオスは現代のような地位を確立してしまったのだ。それを本書ではこのように説明している。「男たちは、薪や食糧、珍しいもの、美しいもの、おもしろいものを求めて野外に出た。そしてそれらを持ち帰って女たちを喜ばせた。しかし間もなく今度は男たちが気づいたのだ。薪も食糧も、珍しいものも美しいものも面白いものも、それらが余分に得られたときは、こっそりどこか女たちが知らない場所に隠しておけばいいことを。」かつて地球に男女差別というものが起こり、女性の地位が激しく暴落した時代があったのも、この現象が原因である。現代のオスがメスより高い地位を築いていられるのは、オスがこの余剰に気づいたことを、メスが未だに気づいていなかったからである。それどころかメスは、相変わらずオスを多様な利便性を持った道具のように会社に行かせ、自分たちは金銭の管理までしている。対照的に、オスはメスの目を盗んで、自身の楽しみや欲望のため要領よく生きている。こうしてこれらの事実を何も知らないで生きているメスこそが本当の「できそこない」になってしまったのだ。
 このように人類は誕生した時から男女の関係性に良いバランスを保てないでいる。これから先、メスとオスが常に対等な位置でともに歩んで行くことは一見不可能なように思えた。しかし人類の最初の構造に戻ってみると、もともとは「オスは生物の基本仕様としてのメスを無理やり作り変えたもの」と述べられているように、基本的にオスは子孫を残すために道具として作られた存在でしかなかった。メスが「できそこない」となってしまった現代であっても、この男女の基本形は変わらない。よってメスが再びオスの地位を奪うことは大いに可能である。したがって、男女が互いに譲歩することができれば、その中間地点である「対等な関係」を新たに作りだす可能性もあるのだ。「できそこない」となってしまったメスも、かつて「できそこない」であったオスも、互いの利便性だけではなく、重要性にも気づき、高めあっていくことで、よりよい男女の関係性を築くことを望む。


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2010年度前期「本を読む」課題図書

 平成22年度前期の「本を読む」、担当する教員とその課題図書は次のとおりです。誰かと一緒に読んでみたい本があれば、ぜひ受講してみてください。(担当教員:書名(叢書名) 著者 出版社 請求記号)

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編集後記

 とにかく暑い夏でした。昼間は連日体温と同じかそれ以上、夜になっても涼しくならず、クーラー(我が家はエアコンではありません)をつけっぱなしでないと眠れない夜が幾晩も続いたなんて、半世紀近く生きていますが、生まれて初めての経験でした。いくら暑い日が続いても、8月も半ばを過ぎれば秋の虫が鳴いて、夏休みが終わるのに宿題が山ほど残っていて自分のほうが泣きたくなった子どもの頃を毎年思い出していたのに、今年はいつまでたってもセミばかりがうるさくて…。これが「地球温暖化」なのでしょうか。
 9月下旬に入り、朝晩は過ごしやすくなってきました。「読書の秋」がやっと始まります。

(図書館/鈴木眞由美)

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