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1905年12月インディアナ州サウスベント生まれ。13歳になる前に母親、父親を相次ぎ病気で亡くし、シカゴの叔母の元で生活をした。シカゴではイングルウッド高校に学籍を置きながらも、ラテン語やフランス語以外の授業には出席せず、代わりにもっぱらシカゴ大学の芸術教室の絵画や音楽の授業に出ていた。彼は正規の学校教育によってよりも、街頭演説やクラブ、サロンで知り合った多くの知人や友人との交友によって、また図書館や博物館・美術館などで、知的世界の幅を拡げ、ヨーロッパの前衛詩、哲学・思想、文学作品、演劇、抽象絵画や未来芸術、更には労働組合運動、社会主義思想、無政府主義思想などに接した。彼自身の言によれば、15歳頃が一番知的に活発な歳であったという。日本や中国の短歌、詩歌に出会ったのもこの頃のことである。
少年時代から、薬剤卸業の雑務や運搬のアルバイトなどをして生計を立てていたが、1920年代には画家、演劇・道化芝居役者、その後地方新聞記者や商業デザイナー、森林パトロール、カウボーイの料理人など様々な仕事に就いた。この間にシカゴからシアトル、ニューヨーク、合衆国南西部タオス、サンタフェを訪れていた。1922年哲学的処女詩集「Homestead called Damascus」を創作開始(公刊は1958年)。1926年商業デザイナーのアンドレ・ダッチャーと結婚。二人は1927年サンフランシスコへ転居し、定期的に郊外の海や森林でキャンプ生活を送った。サンフランシスコでは幅広い交友関係を持ち、30年代は社会思想・労働運動、芸術家失業救済事業に参加した。1937年2番目の妻となる病院看護婦マリー・カースと出会い、1930年代末には良心的兵役忌避者支援活動や東洋系アメリカ人の地位保全活動に取り組み、定期的に山小屋に引きこもり、哲学、宗教書を独学で究めながら詩作、朗読に励んだ。1940年より、「In what hour」を皮切りとして、1941年自ら良心的兵役忌避者となり、病院奉仕労働をする傍ら、次々と詩を創作、刊行した。
第2次大戦後詩人としての名声が上がり、詩作に専念できるようになった。1948年グッゲンハイム奨励金によりアメリカ横断、ヨーロッパ旅行にでるが、途中、来るよう呼びかけたミルズ・カレッジの女学生であったマーサ・ラッセンとフランスのエクス−アン−プロヴァンスで結婚式を挙げた。1950年、52年マーサとの間にそれぞれ長女、次女誕生。1953年から詩人、文筆家として生活しながら、詩集を刊行し、詩の朗読会を中心とするいわゆるサンフランシスコ・ルネッサンス運動を盛り上げ、また55年頃からはビートジェネレーションの作家達の支援者となっていた。しかし、彼自身の詩風は彼らのものとは異なっている。1955年2番目の妻マリーと離婚。1961年には3番目の妻マーサとも別れた。
1968年詩作活動の傍らカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校で教鞭をとり始め、70年代には「The Alternative Society(もうひとつの社会)」「Communalism(共同体主義)」といった現代アメリカ社会に対する文明批評的な評論を著した。1974年かねてより強い関心を持っていた日本を、同年8月に挙式をあげ4番目の妻となった、良き秘書役をこなしていたキャロル・ティンカーと一緒に訪問、翌75年まで京都に滞在し、日本の生活文化を体験しつつ、詩の創作や後進詩人たちの作品発表の支援を行った。
1982年6月カリフォルニア州サンタ・バーバラにて77歳で死す。
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